しばらくして、落ち着いたつぐみは顔を上げ、涙を拭いた。
「でもね、直希……私はそんなあなたを、ずっと見てきたの。
あなたはあの日から、人が変わったようになった。あんなに我儘だったのに、聞き訳もよくなって、誰の言うことでも素直に聞くようになった。勉強も真面目にするようになったし、家でもいつもお手伝いしてた。でも……私はあなたが笑ってるところ、あの日から一度も見ていない」「そんなことないだろ。俺だって、楽しい時は笑ってるよ」
「笑ってないわ。あの日あなたの中に、とても大きなブレーキが生まれたの。楽しい時も、いつも笑ってる自分を俯瞰して、ブレーキをかけていた。何笑ってるんだ、俺は。俺に笑う資格なんてないだろうって」
「……」
「幼馴染を舐めるんじゃないわよ。隠しても分かるんだから」
「……自分でも自覚してた訳じゃない。でも……よく見てるんだな、つぐみ」
そう言ってうつむき、唇を歪めた。
「でも私は……そんなあなたのこと、ずっと好きだった。私の想いはあの時から、いいえ、あの時以上に強くなってる。ずっとあなたの傍で、いいところも悪いところも見てきた。そして私は……やっぱりナオちゃんのこと、好きなんだって思った……これからもナオちゃんと、ずっと一緒にいたい、人生を歩んでいきたい、そう思ったの。
直希……好き、大好き……あの頃の私は、好きってどういうことなのか、よく分かってなかった。でもあの時、あなたを望んだ気持ち。それは間違ってなかったと思ってる……私はこれからも、ずっとあなたの隣に立っていたいの……」そう言ってつぐみが目を閉じ、直希に顔を近付ける。
つぐみの吐息が間近に迫る。このまま身を委ねれば、あの日のようにつぐみと唇を重ね、安息感に包まれる「お父さんの診察では、軽度の認知症ではあるけども、あおい荘への入居は可能ということだった。勿論、暴言や暴力もまだ続いているし、周りの人に対してかなり警戒心を持っている。でもね、元々の原因だった脳血栓も完治してるし、今もあのような状態が続いているのは、別の要因だろうって言ってたの」「別の要因……ですか」「断定は出来ない。でも恐らくは、血栓によって一時的に記憶が混濁した時に、周囲の人の対応が怖かったんだろうって言ってた。自分では何が悪いのか分からない。自分はいつも通りのはずなのに、周りが自分のことを警戒し、無理やり入院させた」「それって……あのその、つぐみさん。以前山下さんに症状が出た時に言ってたことですよね」「よく覚えてたわね、菜乃花。そう、一時的に記憶が混濁した時こそ、周囲の人間の対応が大切なの。勿論、全ての事例に当てはまる訳じゃない。でもね、あの時の山下さんもそうだったけど、自分がおかしくなっているって自覚は、本人には全くないの。なのに周囲が自分の行動を否定して、おかしな人間扱いをする……そうすると、症状がどんどん悪化する、そういうこともあるの。 娘さんを責めるつもりはないわ。だってそんなこと、私たちのようにこの仕事に従事してる人間でも困惑するのに、何の知識もない娘さんが、いきなり豹変した母親を見てしまったら、仕方ないと思うの。 でもね、大西さんはショックを受けた。何も悪いことはしていないのに、娘に無理矢理入院させられた。人間ってね、自由を束縛されると、それを取り戻そうとするの。彼女は病院でも暴れた。ここから出せ、そう言って訴えた。周囲の人から見れば、それはかなり危険な患者に見えたと思う。 暴言に暴力、隙あらば逃げ出そうとする。だから病院は、やむを得ず拘束した。でもそれは、大西さんの中の何かを壊した」「……」「そして次に移されたのが、グループホーム。病院を退院した時、大西さんにも希望があったと思う。これでやっと家に帰れる、自由になれる、そう思ったと思う。なのにまた、見たこともないところに移さ
その日の夜。 直希の部屋で、スタッフ会議が行われていた。 テーブルを囲んでつぐみ、あおい、菜乃花が座り、直希の言葉を待つ。「ごめんね、いきなり呼び出しちゃって」「いえいえ、直希さんはいつも忙しそうにされてますです。こういう時でないと、私たちもゆっくりお話することが出来ません。どうかお気になさらずに……って、直希さん直希さん、ひょっとして私、また何かしましたですか?」「いやいや、あおいちゃんのことじゃないから。心配しなくていいよ」「そうですか……よかったです」「と言うか、最近はあおいちゃん、ミスなんて全くないと思うけど。ここに来た頃と比べても、すごい成長だよ。あおい荘の業務、ほとんど安心して任せられるようになったんだから」「料理以外は、だけどね」「こらこらつぐみ、そこで茶々を入れないの」「はいはい、ふふっ」「それで……なんだけどね、実はここしばらく、色々と動いていたんだけど」「そう言えばそうでした。直希さん、よく外出されてましたです」「やっぱりその……あおい荘に関係あることだったんですね」「うん。実はね、あおい荘に新しい入居者さんを入れようと思ってるんだ」「新しい」「入居者さん」「うん。みんなに黙って動いてたのは悪いと思ってる。でも今回の入居者さんは、ちょっと今いる入居者さんとは傾向が違うと言うか……だから俺なりに色々調べてたんだ。後、東海林先生にも」「つぐみさんのお父さんに……ですか」「うん。だからまあ、つぐみは知ってるんだけどね」「そうなん……ですか……」 菜乃花がつぐみを見る。つぐみは直希の言葉に小さく息を吐くと、あおいと菜乃花を見て言った。「二人にだけ黙っててごめんな
「毎度―っ、不知火でーす」 あおい荘の玄関先で、明日香の元気な声が響き渡った。「明日香さん、お疲れ様です」 その明日香を、食堂から菜乃花が迎えた。「なのっちもお疲れ」「なのっちー、こんにちはー」「こんにちはー」「みぞれちゃんとしずくちゃんも、こんにちは。お母さんのお手伝い?」「そうー。お手伝いー」「お手伝いー」「偉いね。二人共、もう立派なお姉ちゃんだね」 そう言って二人の頭を撫で、菜乃花が笑った。「今、なのっち一人なのかな」「あ、はい。直希さんはお出かけで、あおいさんは入浴の見守り中。つぐみさんは東海林医院で、もうすぐ帰ってくるかと」「そうなんだ。いやしかし……なのっちが一人でお留守番とは、いやはや成長したもんだよね」「ええ? そうですか?」「以前のなのっちなら、残念だけど一人でお留守番、なんてのは無理だったんじゃないかな。一人でいる間に誰かが来たらどうしよう、そんなことを考えながらビクビクと……なんて絵が浮かんじゃったんだけど」 そう言って意地悪そうに笑う明日香に、菜乃花が恥ずかしそうに頬を膨らませた。「何ですかそれ。明日香さんったら」「あはははっ、ごめんごめん。それよかさ、今一人なんだよね。それじゃあちょっとだけ、お邪魔してもいいかな。久しぶりにお姉さんと、お話ししない?」 明日香の誘いに、菜乃花は嬉しそうにうなずいた。 * * *「こらこらあんたたち、あんまりはしゃがないの」「はーい」「はーい」「全く……聞いちゃいないんだから」「はい、明日香さん。お茶、置いておきますね」「ありがとう。しっかし何だね、アオちゃんたちがいないと本当、ここって静かだよね」「そうですね。私も高齢者専用住宅だってこ
「ちょっと理屈っぽくなっちゃったけど、要するに俺が言いたいのはこれ。人生の選択肢なんていくらでもある。ましてや菜乃花ちゃんはまだ18歳。俺たちよりも遥かに多い、たくさんの選択肢があるんだ。 自分が下した決断がうまくいかなかった、そんなことでくよくよしてほしくない。勿論、うまくいくようにベストを尽くすのは大賛成。でも駄目だったとしても、それで菜乃花ちゃんの人生が否定されるなんてこと、絶対にないから。 その上で大切なのは、笑顔でいること。ネガティブな気持ちからは余りいい考えが浮かばない。常に笑顔で、何事にもポジティブになっていくこと。まあ、これが案外難しいんだけどね。でもこれは、俺自身もいつも自分に言い聞かせている」「……」「だから話を戻すけど、逃げることは恥じゃない。これは覚えておいてほしい。そして、折角自分を守る為に逃げたんだから、逃げる前より笑顔になってほしい。自分の選択が間違ってなかったと証明する為にも、自信を持って楽しく過ごしてほしい。そうしたら必ず、次の展開が見えてくるはずだから」「直希さんのお話……そんな風に言われたこと、今までなかったから少し戸惑ってます。本当にその……そんな風でもいいんでしょうか」「菜乃花ちゃんは今、次のステップに進む為の準備をしてるんだよ。生き方の問題だから、時には厳しいことも言わなければいけないこともある。でも今の菜乃花ちゃんは、戦って戦って、ボロボロになっている。今はそういう時じゃないと思う」「……」「要はケースバイケースってこと。菜乃花ちゃん、そんなに深く考えなくていいよ。菜乃花ちゃんの人生はまだまだこれからなんだ。何度でもやり直しはきくし、今よりもいい人生を歩むことだってきっと出来る。だから心配しないで、楽しく毎日を過ごしてほしい、そう思うよ」 * * *「……なるほど。直希くんらしい意見だね」 秋桜を見つめ、生田が微笑んだ。「学校に戻ると決めた時
「あと……すいません生田さん、もうひとついいでしょうか」「……ああ」「台風の日、私その……直希さんと色々お話しすることが出来たんです。それで……その中で、自分の中でよく消化出来てないことがあるんです。お聞きしてもいいですか」「ああ。うまく答えられればいいが」 * * *「私……これからどうすればいいんでしょうか」 直希の部屋で、菜乃花がそう言ってうなだれた。「……」「私……みんなの視線が耐えられなくて、最終的にその……逃げてしまいました。これからどうしたらいいのか分からなくて、帰ってからずっと考えてました。でも……いくら考えても、悪い方悪い方にばっかり考えてしまって……」「……3つかな。俺が菜乃花ちゃんにお願いしたいことは」「3つ……ですか」「うん。まず1つ目は、ちゃんと食べて、毎日お風呂に入ること。そして2つ目は、一日一回でいいから外に出ること。そして3つ目は」「……」「笑顔でいること」「え……それだけ、なんですか」「うん、それだけ。もっと言って欲しかったかな」「いえ、その……私、学校に戻るべきだとか、実行委員、負けずに頑張れとか、そういうことを言われると思ってたので」「そうだね、そう言う人もいると思う。でも俺は、この3つだけ。まず……1つ目は分かるよね。ちゃんと食べてお風呂に入る」「はい……昨日、明日香さんにも言われました」「食べるって
クラスメイトたちが、直希とあおいのテーブルを囲むように集まり、食べる様を呆然と見ていた。「はい、おかわり下さい」「あ、は、はい。どうぞ、直希さん」「ありがとう、菜乃花ちゃん。しかしここの焼きそば、おいしいね。海で食べた焼きそばを思い出しちゃったよ」「あ、ありがとうございます。それでその……直希さん、大丈夫ですか」「うん、まだ大丈夫かな。この調子なら、あと10人前はいけると思うよ」「そうなん……ですか……直希さん、本当に食べれるんですね」「大先生にはかなわないけどね」 そう言って、直希が笑った。「むぐむぐ……むぐむぐ……お、おかわりお願いしますです!」「は、はい! どうぞ!」「ありがとうございますです……むぐむぐ……むぐむぐ……」 皆が、あおいの食べっぷりに言葉を失っていた。 調理場が間に合わないほどのペースで、あおいが次々と焼きそばを平らげていく。 そしていつの間にか、周りに集まった生徒たちから、二人への声援が生まれていた。「頑張れー」「ははっ、すごいな、このお姉さん」「あんなちっこい体の、どこに入ってるんだ」「俺、見てるだけで腹が膨れてきたぞ」「おまたせしました! これが最後になります!」 そう言って、残り20食分の焼きそばが運ばれてきた。調理を終えた生徒たちも集まり、皆の視線は直希とあおいへと注がれた。 最後の10食になると、どこからともなくカウントダウンが始まった。「10! 9!」「むぐむぐ……むぐむぐ……」「8! 7! 6!」「むぐむぐ…&helli